海外観戦歴と2024年 part 1

今回は、選手から観戦者となってもスポーツへの思いが昂じ、時折り海外に出かけて観戦を続けている、そんなスポーツ好きの私ごと、なんと5回シリーズです。今の私を形成している大きな要素の一つなので、敢えて業務を離れて投稿します。

なお、蛇足ながら、わたくし仕事もちゃんとしております。

選手から観戦者へ

1976年卒業前の母校桐朋高校テニスコートにて

私はかつてアスリートでした。多くの部活経験者がそうであったように決して有名選手ではありませんでしたが。

中学校から大学卒業まで軟式庭球(ソフトテニス)の選手。

最も濃密にテニスと向き合ったのは高校2年(1974年)の時で、寝ても覚めても次の大会で勝つことばかり考えていました。

最高戦績は、高校のあった東京都多摩地区での準優勝と秋の新人戦東京都大会でのベスト16でした。

大学進学後は、東京6大学から東大を除く五大学連盟春季大会で3位に入賞しましたが、既に4年生(1980年)になっていました。

そして社会人となって、私の競技人生は終わりを告げ、スポーツとの関わり方は「する」側から「みる」側に変わります。

初海外スタジアムは1997マルセイユ

高校生の頃からサッカーのテレビ中継を観るのが好きでした。テレ東の三菱ダイヤモンドサッカーで、欧州のサッカーには特に魅せられていました。

国外のスタジアムを初めて見たのは1997年、マルセイユ(フランス)のヴェロドロームスタジアムです。巨大ではありましたが、2014年の大規模改装前で、素っ気ないスタジアムを外から見学しただけでした。

これが世界一美しいと言われる現在のスタッド・ドゥ・ヴェロドローム

東京都が、現在の味の素スタジアム(当時は武蔵野の森スタジアム)の参考に視察し、モデルにしたと言われています。

1997年はフランス全土でFIFAW杯1998が開催される前年。

職場には仕事を休む理由を「来年のための事前視察さ」とウソぶいておりました。

しかし、結局肝心の1998年は、多忙の極みで流石の私も、フランスでワールドカップ というわけにはいきませんでした。

初めての海外観戦、2000年ベルギー

思い断ちがたかった私は、ついに2000年6月、親友を伴ってEURO2000オランダ・ベルギー共同大会へ赴きます。ナミュール(ベルギー)に滞在し、リエージュとシャルルロワへ転戦しました。

ボールを追って芝の上を疾走するドラガン・ストイコビッチ

この時の観戦目的は、旧ユーゴスラビア時代から各自治州統合の象徴だったストイコビッチ(当時は名古屋グランパスエイト所属)を欧州の地で見ることでした。

海外初観戦はスタジアム最前列の幸運。

当時、監督から干されていたストイコビッチは、スロベニアにリードされた後半から途中出場すると、コソボ紛争で互いに殺し合った両国の観客を釘付けにする鬼気迫るプレーを展開、グラウンドのコンポーザーとなって、あっという間に0−3の劣勢を挽回し引き分けに持ち込んだのです。

目の前を走り抜けるストイコビッチの大活躍に声援を送った人生最高の観戦経験でした。

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